書籍「徒然草」

「徒然草」 吉田兼好  岩波文庫 黄112-1 
 
 第百二十一段  養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、な くてはかなわぬものなれば、いかゞはせん。…略…その外(ほか)の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅(つば さ)を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁(うれへ)、止む時なし。(引用ここまで。)
 
 歴史上の人物で会ってみたい人は? などという非常によくある質問に律儀に答えるとするならば、わたしは「兼好さん」と答えるだろうと思います。この人の感性はとても好きです。徒然草は全部 で243段で構成されているのですが、どの段もぴりりとして、嫌な感じがなく、しかし良くないことはきっちり批判していて、非常にすがすがしい。この段以 外にも、動物を苦しめるべきではない、ということが書かれている段はいくつか存在します。
 「古文」という授業がありますが、わたしはこの教科は 全然好きじゃなかったんだけども、でも、なぜかこの徒然草だけは、よく理解できました。つまり、何語で書かれているかとか、どういう文体で書かれている か、というより、「何が言いたいか」ということが感性を通して「感じられる」かどうかなのだと思います。わたしは外国の方に接しているときよくこういう経 験を持ちます。「この人は好きだな、かんじがいいな」と思っている相手の言いたいことは、相手が何語で話していようがよく分かります。感性の上にことばの 衣をまとっている、というかんじでしょうか。だから、わたしは外国語が上達したかのような錯覚に陥るわけですが、決してそうではなく、ただ「通じ合ってい る」という状態に二人が達しているというだけなのです。動物相手でもそうです。
わたしは猫ではありませんが、わたしの猫たちとはよく「通じ合って」います。その逆もまたしかりで、わたしは日本人で、母国語は日本語ということに表面上はなっていますが、「日本人」と「日本語」で話していても通じ合わない時などはいくらでもあります。
 
  わたしはよく「ビーガンみなきょうだい」とか「ビーガンは世界のことば」などと言いますが、それはふざけている訳ではなく、本当にそう思っているのです。 動物を苦しめるべきではない。殺さなくとも、苦しめなくとも、食べなくとも生きていけるのであれば、そうする。そのことで、環境は守られ、人類に食糧が行 きわたるのであれば、なおさらそうしたい。そしてその結果、自分自身も健やかでありたい。そう願うわたしたちにそもそも「ことば」など必要ありましょう か。
 実際、わたしがビーガンだ、ということを告げて喜んでくれた人はたくさんいます。仲良くなった人もたくさんいます。わたしは、自分がビーガンである、ということを前提に関わってくれ、出会ってくれる人たちをとても好きだと思います。
 ビールのおつまみを、わたしに合わせて、ピーナッツや昆布にさりげなく変えてくれていた時なんかは、ほんとうにそんな気持ちになるのです。徒然草的に書くと、「さりげなき、こころばせこそ、いみじけれ(係り結び)」。
 
 文責:猫家知恵蔵



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