「社会を変えるには」 小熊英二
…石牟礼道子の本は「苦界浄土」という仏教的なタイトルがつけられ、作品中で有名になったエピソードは、神経を侵された老齢の患者が、病院で痙攣をおこしながら「天皇陛下ばんざい」と叫ぶ場面でした。 …略… どんな社会運動も、少なくとも初発の動機としては、こうした部分を含んでいると言えるでしょう。少なからぬ運動家は、運動のノウハウの部分とは別に、最初に自分を突き動かした「原体験」を持っています。
部分転載、ここまで。
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この本はとてもいいので、前にも紹介して「デモ」の項目で出ているが、再び紹介したいと思う。どんな運動にも共通点はあり、わたしたちはお互いの運動から、さまざまなことを謙虚に学び合うことができるし、その根底にある強い思いが一致していることを理解できれば、連帯の力になっていく。そういうことを思う。
運動が大きくなり、広がっていくには、分かりやすさ、親しみやすさ、明るさ、などの要素が不可欠になって行く。政治的な戦略、マーケティング要素なども大切になってくる。キャッチーなスローガン、たとえば、エコとかベジとか脱原発とか「できることからはじめよう」的なそういうことばは使いやすく、多くの人を取りこみやすい。そのことはとても大切なことだ、と強調しておきたい。
それと同時にわたしは「原体験」をとても大切にしたい。そしてそのことをなるべく語りたい、と思っている。わたしを突き動かしているのはなんなのか、を大切に持ち続け、そこをいつも確認したい、と思っている。
ヴィーガン、と言うと嫌がられたり、「一人が実践したくらいで」と失笑されたりなど、いろんな目にあう。だから、あまり言わない人も多いだろう。しかし、わたしは、ヴィーガンになろうと決めたのは、わたしの大切な「原体験」であり、強い思いであり、たとえたった一人でも、どんなに小さなことでも、大切な強い思いに違いはない、と思っている。そういうことを拙著で書きたかった。そういう個人個人の強い思いや「原体験」が、運動の根底にはあるし、それらはもっと語られていい、とわたしは信じているからだ。
わたしが出会ったヴィーガンは昔一緒にいたイギリス人のパートナーで、わたしは彼から多くを学んだ。「ここは日本なんだから」「わがままを言うな」と言われても、絶対に肉を食べなかった。和食にはつきものの魚介も食べなかった。なにか食べ物を買うときは表示を読み、読めない時はわたしに聞いた。わたしが分からなければ、店の人に聞いた。そこまでして何が、と思わないでもなかった。でも、このことは彼にとって大切なことなんだ、というのを当時のわたしは理解していた。どんなに面倒でも、どんなに理解されなくても。それがどんなに小さなことであったとしても。
アニマルライツ運動で出会ったヴィーガンは、ARCスタッフのSさんで、わたしは彼女からもとても多くを学んだ。ブログとかデモ、というよりはその「佇まい」から無言のうちに学んだ。誰が見ていなくても、たった一人で路上で動物たちに黙とうを捧げるその姿から、シャンプーやせっけん、飲み物にいたるまで、動物実験がなされていないかどうか確認してからしか自分用にしない、その姿から、わたしは学んだ。
大きいことは割と誰でもやりたがるけど、小さいこと、周辺的なこと、注目されないこと、めんどくさいことを多くの人は嫌がる。しかし、そういうことにこそ、わたしは「ヴィーガン」の本質を見るし、そこを実践している人と接したことがわたしの「原体験」であるからだ。
そしてなにより書いておきたいのは、わたしはそういう細やかで優しいヴィーガンが社会のあちこちにひっそりと存在していることこそ希望だ、と思っている、ということだ。
そんな気持ちで、拙著「ヴィーガンという生き方」を出した。
すべての心優しき、ヴィーガンのなかまたちに、最大限の祝福と、エールを。
それぞれの「原体験」を分かち合える人々と、一人でも多く、連帯を。
文章:猫家知恵蔵
著書「Veganという生き方」「生きルーム」
http://mind-k.com/book/
〈私はしばしば、「デモをやって何か変わるんですか?」と聞かれました。「デモより投票をしたほうがいいんじゃないですか」「政党を組織しないと力にならないんじゃないですか」「ただの自己満足じゃないですか」と言われたりしたこともあります。しかし、そもそも社会を変えるというのはどういうことでしょうか。〉(「はじめに」より)
いま日本でおきていることは、どういうことか? 社会を変えるというのは、どういうことなのか? 歴史的、社会構造的、思想的に考え、社会運動の新しい可能性を探る大型の論考です。