命とは、生きる権利とは ~障害を持つ私から見て~

安積遊歩

生きる権利とはなにか、命とはなにかを見ていこうとする時に、わたしの人と少し違った体、その体だったから見えて来た医療、そして私の家族についてまず書いていきましょう。
 

私の母は小作農であった両親のもと、7人兄弟の次女として、多様な人が行き交う温泉街に生まれました。しかし、貧しさ故に、中学校には進学出来ず、戦時中は13歳で、すでに軍需工場で働き、家族を支えた人でした。結婚直前に、最愛の双子の妹を結核で失いました。その理由もまたまたお金の都合がつけられずに薬の購入が遅れたためでした。愛情深い祖父は、そのショックのあまり難聴となり、私が生まれてからもずっと性能の悪い補聴器を使い、それでもいつもニコニコと私を可愛がってくれました。祖母も母の兄弟もそれぞれ貧しさの中で大変ではありましたが、みんな非常に愛情深い人たちでした。

父は、10歳前後で夜逃げ同然に福島から満州に移民した両親に連れられ、その地で日本兵として徴兵され、2年半中国各地を加害者として行軍、シベリアで捕虜となり、今度は戦争の被害者として生き抜きました。父は、祖父がアルコールで3代続いた魚屋を倒産させたのを、幼い時に見ていたので入隊するまでは酒は一滴も飲まなかったそうです。ところが、軍隊生活のあまりの過酷さに2日目には、酒を浴びる程に飲んでいたと言っていました。

父はよくニュースを見ては、昭和天皇や政治家が出ると、「いいか偉そうなやつが偉そうにものを言う時は絶対に気をつけろ。とにかく、自分の頭で考えてこいつらに騙されるな」と、晩酌をしながら叫んでいました。
ところが、家で偉そうにものを言うのは父でしたから、私はその父に反論して、大人に対等に物を言っていいということを学びました。

私は、1956年、3つ年上の兄の居る長女として生まれました。
生後40日目の脱臼検査のレントゲンで、全身の骨が酷く脆いという特徴が発見されました。
当時の医学には、説明責任や,患者の治療に対する選択権という概念は皆無でした。そうした中で母は、この子は長く生きられないという脅しをうけ続けました。
医者によっては短くて3ヶ月、長くても20歳までと宣告したので、母は、待望の女の子であった私がそんなに短命であることが、受け入れ難く、彼らの言う通りに一日おきの男性ホルモンの投与や、おびただしい数のレントゲン照射等、兄の手を引き、私を背負っての通院が2年に渡って続いたのでした。
この治療を止めたのは、妹でした。私が二歳になるとき、妹は私を助けるために、この世界に来てくれたかのようでした。その後もずっと今日まで私の人生は、妹の支えがあってこそです。

私は、今年60歳になります。当時の事を思い出すと、母が私の命を懸命に守ろうとしてくれた事に、胸が熱くなります。
しかし、そう思えるようになったのも、ここ20年くらいのことです。
40歳くらいまでは、男性ホルモンの影響や、レントゲンの過酷さ、手術の痛み等々、私の体に対する医学の攻撃の酷さを体が覚えていて、そこから私を遠ざけることをしなかった母の無力さに憤ってきました。

6歳で、初めての手術をされたときには、あまりの痛みで、医者に対してヤブ医者とののしり、看護婦達にも「私に近づくな」と泣き叫びました。命を守るというのでは全く無い、ただ曲がった骨をまっすぐにするべきという、医者達の向学心で、骨と肉と皮を切られ、その上ピンを骨に挿入されるという、非常に惨い手術でした。
私の体は骨が曲がりやすいという特徴を持っています。その特徴に対する尊重と、その体のままでもどのようにしたら生活を楽しめるようにできるかという視点の全く無い医療でした。それどころか、私の傷付きやすい体と心をさらに傷つけることばかりが行われていたので、私の感性は悲鳴をあげ続けたのです。

幼い私は、母が私を守るために医者に謝罪しているのを見て、医者や看護婦が居なくなると、今度は母を責めるのでした。母は私の感性の様々な発現を、涙と笑顔で受け止め、聞き続けてくれました。いや、愛情深い母にとっては、それ以外に方法がなかったのでしょう。

私は13歳のときに、こうした一切の私の体にされてきた治療、私の体にとっての虐待と訣別することを決めました。
その時私は,脊椎側弯が激しくなりかけていたので、手術を勧められたのです。ただその手術は、とても危険なものでした。なかには手術が失敗して、寝たきりになっている人もいました。それでも曲がった骨はまっすぐにした方が良いという医者達に、医学にとっては、私の体は実験材料でしかなく、私の人生を痛みと拘束でめちゃくちゃにしているという自覚はかけらもないのだと、心底思い知りました。 

生きる権利とはなにか

障害を持つ人の生存権は、まず医療が正義であるという常識によって、時に徹底的に侵されています。医療が正義であるためには、その過酷な治療の数々に、丁寧な説明責任が果たされなければなりません。その上で、患者の選択権や決定権の上で治療が開始されるべきなのです。

全くそうはなっていなかった整形外科医療は、私にとっては、拷問にも等しいものでした。

この社会の特に、幼いときからの障害を持つひとに対する権利は、生存権からして認められていない様があります。つまり体が人と違う特徴を持っていることは、生まれてきてはならないかのように、出生前診断という、私たちにとっては、障害胎児虐殺が堂々と必要な事のように2013年から合法化されました。
もし私の時代にそれがあったとしたら、どんなに愛情深い母でも、自分は学校に行けなかったから、知識のある医者の言う事を聞かなければならないと思ったことでしょう。つまりもしかしたら私は、ここに生まれていなかったかもしれないのです。  
 

今回、わたしの体をめぐる今までのことを書かせて貰うことで、障害を持つ人の生きる権利とは何かを考えて貰えたらと思いました。
体が人と違うということで命の価値や権利にいっさい違いがないということを、少しでもわかっていただけたら、それはこの世界に生きる動物達もまたそうであると、繋がっていくことでしょう。

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