助け合うということ

安積遊穂

 私は、今60歳ですが40歳で思いがけない出産をし、私と同じ体の特質を持った、娘を産みました。
私たちの体は、西洋医学では、タンパク質やカルシウムが吸収しにくいために、低身長で骨折しやすいと言われ、その二つは私たちの大事な個性です。私は20回くらい骨折を、娘は20歳ですが、すでに15回くらい骨折しています。

私と娘は、体の特質はよく似ていますが、小さい時から周りにどんな人たちにたちに囲まれ、助けられて育ったかをみると、まったく違う事が大きく二つあります。

 一つは、私には助け合う関係性を日常のなかでくれた母の家族と近所がありましたが、娘にはそれが無い代わりに、私と娘の父で頑張って築いた友人、知人のネットワークがありました。

そして二つ目に私は、助け合うという関係ではなく、一方的に助けてあげようという医療者達に囲まれて育ちました。彼らは私と母の意見は全く求めようとせず、それどころか、「痛いからやめて」という私の叫びや、それを聞き続ける母の不安を、治す事が正義という自分たちの価値観を強烈に押し付け、私たちの涙を無視し続けました。

 娘にはそうした一方的な関係は必要ないと考え、彼女が求める助けだけをあげられるよう努力しました。彼女は骨折を繰り返す度に自分で静かにじっと動かず、自分で治してしまいました。彼女にとって必要な助けは横になっている時でも一緒に遊んでくれる大人であり、彼女の体を思って料理をし,食べさせてくれる人であり、彼女の喜びや悲しみを分かち合ってくれる仲間でした。彼女の体を治してあげましょうといじりまくる医療者からの助けは、彼女にとって、全く助けとは呼べないものでした。
 
 今回助け合うという事を、3回書かせてもらおうと思っているなかで、その1回目は助け合う関係性を私が作れるようになった土台にもなっている、母について書こうと思います。

助け合うことの基礎を作った母

 私の母は、小作農で寺男をしていた父親と、その父親を手伝いよく働いた母親との間に、上から3番目の双子の姉として産まれました。とにかく、貧しいけれど優しくてあったかい両親と兄姉弟妹たちでした。私の母が、私の父と結婚する時には父の両親が他界していた事が母にとってよいことと考え、つまり家父長制度の支配から自由でいられるだろうと思い、シベリア帰りの貧しい父との結婚を認めたといいます。そのうえ母の家族には、暴力が一切無かった為に、父親に「絶対うちの娘に暴力を振るわない事」という証書を書かせました。

 母は双子であったためか近所中の人たちに可愛がられ、特に近くに住んでいた年配の女性は、双子の母達を自分の子どものように可愛がったと言います。
自分の家に、母達を連れてきては、ごはんを食べさせ、お風呂に入れ、誰に頼まれたわけでもなく、当たり前のような愛情を注いでくれたので、結婚して彼女の元を去るのも辛かったと母はよく言っていました。

そんな母にとっては、助け合うという事がどんな状況でも当たり前の事だったのでしょう。私が産まれてからも近所の人と自然に助け合っていました。自然にとはいっても、母の気持ちのなかでは、兄は近所一番のわんぱくで乱暴な子と呼ばれ、私はしょっちゅう病院に通い、そのため妹は母の実家や近所に預けなければならず、たくさん気を使いながらではあったと思います。ただ母の口癖は、「お互い様」という言葉で、「誰かに何かをしてあげても、してもらってもお互い様なのだ」と言うことで、助け合う事の豊かさと素晴らしさをいっぱい伝えてくれました。

当時は、コンビニもなく、今ほどの経済至上主義ではなかったために、お味噌がコップ半分足りなければ、隣のお家にお味噌を、醤油が無ければ、醤油を借りに行く事が当たり前の風潮でした。

 近所中が結構そんな風でしたが、私の母は特にためらいなく、なんでも借りるし、求められれば貸したり、あげたりが得意な人でした。よく思い出すことの一つは、母が乞食さんに丁寧に応対している姿です。今ホームレスと呼ばれる人は家を一軒一軒訪問するということを全くしません。しかし昭和30年代から40年代前後まで、私の産まれた福島には家々を回って助けを求める人が随分来ていました。

その人たちが、玄関の戸を開けてくると、母はどんな人が来てもエプロンのポケットにくしゃくしゃに丸めて入れてあるちり紙を取り出し、5円10円(今だったら50円から100円くらいの価値があるかもしれません)のお金を綺麗に包んで彼らに渡していました。渡す時も彼らにお辞儀をしながら渡していたので、彼らが社会的には見下されたり、馬鹿にされたりする位置にいる事に私が気付いたのは学校に行くようになってからでした。
 
 また隣の家族は六人中、3人がいわゆる精神障害者と呼ばれる人たちで、その家族との関わりも忘れられないものです。小さな一戸建ての市営住宅が立ち並ぶ中、真夏のある日彼らの家では当たり前になっている家庭内のケンカが激しく始まりました。
私と妹はこちらも開けっ放しの窓から、襖が倒れ、大声が飛び交い、つかみ合って喧嘩する様子を、低い垣根越しに驚きながらじっと見ていました。
母はわたしたちの様子に気付きながらも何を思ったか台所に行き、きゅうりの漬け物を糠床から取り出しました。そして彼らの家に行き、
「漬け物できたから味見てくなんしょ(味見して下さいな)」
と彼らにそれを差し出したのでした。
私と妹はどうなるのかと顏を見合わせましたが、彼らの激しい喧嘩はすっと静まり襖の立て直しが始まりました。

窓を開け放とう

 母の生き方の中には、プライバシーや秘密という物がほとんど無かった気がします。その喧嘩も、私の家の隣近所には扇風機のある家がほとんどだったので、彼らの家から大声が聞こえ始めると今まで開けていた窓を閉めてしまう家がほとんどでした。でも、私の母は私たちに対して「家族が仲良く暮らせないのは大変なことだ。お互い様だ。」といって、窓を閉めることなく無関心ではなく、何ができるかを行動で示し続けてくれました。

 「プライバシー」と「迷惑」という言葉が、私は好きではありません。自分のプライバシーを守ることで社会的に弱い立場に置かれた人に対して無関心になり、想像力がどんどん欠如していく気がするのです。
また、助けてもらう方にとっても、迷惑をかけてはならないとするなら助けの必要な部分を弱さと思い込まされ、助けてという声を上げづらくなります。
母が、教えてくれた事は、助け合いはお互い様で、無関心よりは窓を開け放って自分の出来る事をすること。本当に素敵な母でした。

文:安積遊歩


写真:Designed by Pressfoto / Freepik

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