この本を書いたマーク・ベコフはどのような人物なのか、
コロラド大学の動物行動学教授という肩書以上に、彼の人物を如実に表しているのが、この写真だろう。
左がマーク・ベコフ氏だ。
この写真は、ベコフ氏に妊娠ストール廃止キャンペーンの賛同をいただいた際、本人の紹介写真として氏にいただいたものだ。
決して笑顔とはいえない豚と、満面の笑みのベコフ氏。そしてソックスに堂々とPETAの文字。
ベコフ氏のユーモアとスタンスと動物への情がこの写真には表れている。
かわいいとはいえない貫禄ある表情の豚の写真を選んだベコフ氏には、おそらく動物は決してかわいがり愛でる対象ではなく、地球に住む仲間であり尊重すべき対象としてうつっているのではないだろうか。
「動物たちの心の科学」では動物たちがどのような感情を持っているかが、数々の動物行動の観察データ、フィールドワークを通して語られている。
たとえば、コヨーテの群れの母親がいなくなった時の群れの反応については次のように書かれている。少し長いが、動物の豊かな感情世界が丁寧に描かれているので引用したい。
「私と学生は、8年にわたり、ワイオミング州のグランドテイトン国立公園でコヨーテの研究をしていた。
(母親だったので)私たちが「マム」と呼んでいたメスは、家族を置いたままエサの渉猟に出かけることが多くなり始めた。数時間どこかに出かけてから、何事もなかったかのように家族のもとに戻ってくるようになったのだ。彼女がいない間の家族の反応を知りたかった私たちは、何が起こるかを観察していた。やがてマムが出かけている時間は次第に長くなっていった。丸一日あるいは二日にわたるケースもあった。マムが出かける直前には、頭を横に傾け、「今度はどこに行くつもりなのかね?」とでも言いたそうに眉をひそめながら、興味津々といった様子で彼女のほうを見ている群れのメンバーもいた。子供の何頭かは、しばらく彼女の後を追っていった。そしてマムが戻ってきたときには鳴き声を上げ、彼女の鼻先をなめ、尻尾を風車のように振り回し、彼女の前で転がりまわることで喜びを表現した。明らかに、彼女がいないあいだ、子供と父親は、寂しく思っていたようだ。
ある日マムは群れを離れた後二度と戻ってこなかった。群れは彼女の帰りを辛抱強く待っていた。神経質そうに、あるいは期待するような様子で歩き回る個体や、彼女が出かけた方向へしばらく歩いていき、立ち止まったとおぼしき場所のにおいをかぎ、彼女を呼び戻そうとするかのようにほえ、結局何の手がかりも得られずに戻ってくる個体もいた。一週間以上にわたって、群れの活動は停滞した。家族は沈み込み、私たちはコヨーテにその能力があるのなら、きっと泣き叫んでいたに違いないとさえ思った。彼らの態度は、それほど深く複雑な感情を表現していたのだ。
しばらくすると、群れの生活はほぼ普段の状態に戻った。見慣れない新たなメスが加わり、支配的なオスとつがい、二年間で10匹の子が生まれた。今度は彼女が母親になったのである。しかし折に触れて群れの何頭かは、依然としてマムがいなくなったことを寂しく思っているような態度を示していた。背筋を伸ばして座り、あたりを見回し、風上に鼻を向け、さらにはマムが消えていった方角に向かってしばらく歩いていき、疲れて一頭で帰ってくる個体がいたのだ。」
かつては、このコヨーテの記述のように動物を擬人化し「動物の情動」について言及することが避けられていた。結局のところ怒りや愛情や悲しみといった感情は科学的に定量化できるものではなく、そのような「不可視」で客観的なデータが取れないものは「サイエンス」ではないと研究者たちは考えていたからだ。
しかしこのような状況は過去のものになりつつあるとベコフ氏はいう。今では科学雑誌でもラットの喜びやゾウの悲しみについての記事が掲載される。「動物が情動を持つ」ことにもはや議論の余地はない。
本書ではコヨーテだけではなくゾウ、イグアナ、犬や猫、チンパンジー、ツキノワグマなど様々な動物が登場する。この本を読んで動物の持つ深い感受性を知ると、動物の社会に土足で踏み込み搾取し、その尊厳を踏みにじる行為が、いかに罪深いことなのかを悟るだろう。
動物の情動を理解するには研究者である必要はないとベコフ氏は言う。丁寧に観察すれば一般の人々でも動物の情動を一貫して正確に見分けることができるという調査研究も本書で紹介されている。
動物園の狭い檻の中で左右に行ったり来たりを延々と繰り返しているトラや、方向転換できない妊娠ストールの中の豚を見て、動物の代わりに「苦しんでいる」と声をあげることを私たちは恐れるべきではない。コルチゾールなどといった科学的データを待つ必要はない。「かわいそうだ」と感じたなら「かわいそうだから止めろ」と声を上げるべきなのだ。
本書の最後の章でベコフ氏は言っているように「社会を改善するにあたって沈黙は敵なのだ」