ヘンリー・スピラ(Henry Spira)。
彼は、動物の権利運動のもっとも偉大な活動家であり、戦略を立て、もっとも効果的に運動を成功に導いた初めての活動家という意味で、現代の動物の権利運動の基礎を築いた人物でもある。
ベルギーで産まれ、13歳の時にアメリカにわたった。彼が動物の権利活動家になったのは、45歳のときだ。知り合いの猫を世話をしているうちに「ある動物をかわいがりながら、別の動物にはナイフとフォークを突き刺す。これは正当なことなのだろうか?」という疑問が彼の胸に浮かんだ。オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの動物の解放に関する記事がニューヨークタイムズに掲載されたのはちょうどそのころだった。スピラはその記事を読み、シンガーの夜間講義のコースに通い倫理の勉強をはじめた。そこでクラスメートの皆に呼びかけ、シンガーの倫理を実践に移すことを決めたのである。
これまで商船隊員、自動車産業労働者、左翼ジャーナリスト、組合活動家、公民権活動家、ニューヨーク市の高校教師などを経て、20年にわたり人権問題や労働問題にかかわってきたスピラには社会を変えるために何が必要かを知っていた。
彼がほかの活動家と大きく違っていたことは「性急に事を運ばない」ことであった。手当たり次第にやるのではなく、どのキャンペーンを選べば勝利が可能かを慎重に選び、綿密な計画を立てた。停滞していた動物の権利運動を軌道に乗せるには、まず成功したという先例が必要なことを彼は知っていた。
彼が初めに取り組んだのは、アメリカ自然史博物館の地下で18年間にわたって2人の心理学者により行われていたネコの実験(ネコの脳の一部を切除して性行動に及ぼす影響を調べるもの)だった。
彼がこの実験をキャンペーンの対象に選んだのは
・ニューヨークというメディアの注目が集まりやすい場所である
・スピラの家から近い
・ネコの実験に税金が使われている
という事実であった。
家から近ければ長期のキャンペーンにも耐えられるし、税金を使ったネコの残酷な実験というテーマは民衆の心を動かしやすい。スピラは一年ほどかけて慎重にそして急いで準備をすすめた。彼はまずどういった実験が行われているのか、このプロジェクトの計画書、論文を合法的に請求し内容を精査した。そしてまず博物館側に話し合いを求めた(はじめに話し合いを求めるというのが彼の徹底したスタンスだった)。しかし博物館側は話し合いに応じなかったため、入手した実験内容、すなわち「視神経を破壊して盲目にする」「内耳の一部を破壊して耳が聴こえなくする」「脳の嗅覚中枢を破壊して、嗅覚をなくす」「オスの子猫の性器の神経を除去する」などをネコに施した場合、ネコの性生活に影響があるかどうか調べるというおぞましい実験内容をメディアに投稿し、博物館前にピケを張り毎週末デモを行った。
数えきれない抗議の電話が博物館になり響き、民衆は8000通以上の手紙を博物館に送った。
そして1年8か月後、この実験を閉鎖に追い込むことに成功。スピラはこの勝利を「小さな勝利だった」と言っている。実験室で使われていたネコは60匹。世界中で犠牲になっている動物の数に比べるとわずかな数だからだ。しかしスピラはまずは先例を作りたかったと言っている。動物の権利運動は勝利に飢えていた。これまでこのような形で成功に導かれた例は無かったのだ。
「これは大きな勝利ではありません。しかし、それは我々が勝つことができたことを示し、この最初の勝利を次の大きな勝利への足掛かりとして使います。」スピラはそう言い、その通りにそれを実行した。
彼が次に取り組んだのはニューヨーク州のPound Seizure法の廃止、保護収容された犬猫を実験室に送ることができるという法律を廃止させるという運動だ。
かれがロビー活動としてアプローチしたのは、この法律の廃止を邪魔してきたロンバルディ上院議員だった。他の動物保護グループはロンバルディこそ悪の根源として話し合いを拒否したがスピラはそうではなかった。ロンバルディのこれまでの政治的実績は認め、敵対しなかった。ロンバルディ自身はPound Seizure法は廃止されるべきではないとの考えであったが、「かれの考えがどうであれ、民主的に議論されるべきではないか」とスピラたちは提案し、ロンバルディは議論が不可欠であったことを認めた。議論後に投票が行われ、結果Pound Seizure法は廃止されるに至った。
スピラたちはそのあとロンバルディ議員に感謝の気持ちを伝えるためにプレスリリースを出しているがスピラはこのリリースを「重要なことだった」と言っている。「誰かをやっつけるために運動をしているのではなく、動物を守るために運動をしていることを明確にすることができた」からだ。
「これは2度目の勝利であり、我々の士気のために重要なものでした。」スピラは”Fighting to Win”のなかでそう語っている。「いよいよ、はるかに重要なものに取り組むべき時期がきました。」
ここからスピラたちは更に運動を拡大させていく。
アメリカトップの化粧品会社Revlonにウサギの目を使った化粧品の動物実験(ドレイズテスト)の廃止を求め、代替法の研究開発に数十万ドルを出すことを決定させた。次にProcter&Gamble(P&G)にアプローチして1984年には、動物試験を可能な限り迅速に段階的に廃止すること、代替手段の開発に資金を提供することの合意に至った。こういった彼の運動は大局的に見てこれまでの運動よりもはるかに多くの動物を救うことにつながった。
その後スピラは、彼が「世界の犠牲者の中でもっとも無防備なもの」と呼んでいた畜産動物の問題に焦点を当てた。農務省と交渉し、輸入牛のフェイスブランド(焼き印を体に当てる)要件を廃止し、マクドナルドから動物福祉の基本基準を満たすようにサプライヤーに要求する合意を獲得した。
彼が死ぬ前には、マクドナルドとのより強い合意を目指して交渉している最中であり、さらにウェンディーズともマクドナルドと同様の合意を得ることを模索しているところであった。こういった働きかけは現在企業が次々と発表している「卵のケージフリー宣言」「豚の妊娠ストール廃止宣言」の先駆けとなるものだった。
ここでスピラが取り組んだすべての動物の権利運動には触れないが、彼が進めてきた運動方法は現在に受け継がれ、資金を持つ多くの動物保護団体はそのやり方を踏襲している。
スピラがすごいのは当時は彼一人だったということだ。資金もなく協力者もいない、たった一人でこの基礎を築くまでにスピラを動かしたのは、彼の強い意志だっだ。
彼は動物の解放運動が「自分が生涯をかけてきたものー弱者、犠牲者、支配されている者、抑圧されているものの側にたつことーの論理的な延長である」と言い、生涯の終わりまで「力が正義なりとというファシズムを信奉するのでない限り、われわれは他者を傷つける権利を持たない」と信じていた。
そして抑圧されているものを解放するために何をすれば良いのか、実践するすべも知っていた。
まず比較的小さい実現可能な目標を設定し、さまざまな専門知識を持つ活動家を集め、相手の視点であらゆる角度から問題を研究し、敵対者を悪人と見ることはせず可能な限り建設的な議論を交わした。彼は、闘う相手は「人」ではなく「システム」であることを知っていた。
動物の権利運動を勝利に導いたスピラであったが、他の大きな動物保護団体には属さず、組織の官僚化を避けるために自分たちのグループは最小限に抑えた。彼自身は控えめでお金や地位や名誉を求めず、ほかの動物保護団体から彼の活動が表彰されることがあっても賞状は棚の中にしまったままであった。
参照:
”Fighting to Win”by Henry Spira
In PETER SINGER (ed), In Defense of Animals New York: Basil Blackwell, 1985, pp. 194-208
Henry Spira, 71, founder of the animal rights movement OCTOBER 9, 1998 BY MERRITT CLIFTON
「永遠の絶滅収容所」チャールズ・パターソン著
「罪なきものの虐殺」ハンス・リューシュ著